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新選組最強の剣士・永倉新八の生涯とエピソード

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みなさんこんにちは!

今回は幕末の武士で新選組の二番隊組長だった永倉新八についての紹介です。

永倉新八新選組最強の剣士の1人と言われさまざまな逸話が残っています。

明治時代には北海道で剣術師範として後進の指導にあたりました。

今回はそんな永倉新八の生涯とエピソードを簡単にまとめてみました。

永倉新八の生涯

- 1839年天保10年)、江戸の松前藩上屋敷で長倉勘次の次男として生まれる。本姓は長倉、諱は範之(のりゆき)。
- 1846年(弘化3年)、神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門し、剣術を学ぶ。
- 1856年(安政3年)、元服して新八と称する。同年、剣術修行のために脱藩し、永倉姓を称する。
- 1863年文久3年)、近藤勇の道場「試衛館」に食客として入り、浪士組に参加する。その後、新選組に入隊し、二番隊組長や撃剣師範を務める。
- 1864年(元治元年)、池田屋事件で奮戦し、左手親指に深傷を負う。
- 1865年(慶応元年)、近藤勇の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出る。
- 1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いに参加。甲州勝沼の戦いで敗走。近藤と離れ靖兵隊を結成。
- 1871年明治4年)、杉村きねと結婚し婿養子となり「杉村」姓になる。
- 1873年明治6年)、家督を相続して「杉村治備」と改名。
- 1882年(明治15年)、樺戸集治監で剣術を教える。
- 1915年(大正4年)、骨膜炎と敗血症により死去。享年77歳。

永倉新八のエピソード

- 永倉新八は剣術好きが高じて脱藩し、市川宇八郎という剣客と共に修行の旅に出ました。その途中で芹沢鴨斎藤一などとも出会っています。
- 永倉新八新選組でも最強と言われるほどの剣の腕前でした。新撰組隊士の1人である阿部十郎は後年、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と語っています。

- 永倉新八は我武者羅な性格で、「我武者羅」と「新八」を合わせて「がむしん」と呼ばれていました。その性格ゆえか近藤勇土方歳三とは意見が合わず、対立することも多かったそうです。
- 永倉新八鳥羽・伏見の戦いでは決死隊を募って官軍に突撃しました。その時の気迫は凄まじく、「鬼神」と恐れられたと言われています。また、甲州勝沼では土方歳三が不在時に隊長代理を務めました。
- 永倉新八は明治時代に北海道小樽に移住しましたが、日清戦争が始まると55歳で出兵を志願しましたが断られました。「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」と自嘲したそうです。

- 永倉新八は晩年に映画を好んで見ており、孫を連れてよく映画館に通っていました。

ある日、映画館で地元のヤクザに因縁をつけられた永倉新八は鋭い眼光と殺気をまとうと、あまりの気迫にヤクザが逃げていったといいます。

まとめ

今回は、幕末の武士で新選組二番隊組長だった永倉新八について紹介しました。

剣術好きが昂じて脱藩までした彼も明治以降も剣術好きは健在で晩年まで稽古、指導に携わったそうです。

まさに剣を愛し剣に生きた男ですね。

本日5月23日は永倉新八の誕生日(旧暦:天保10年4月11日)ということなので永倉新八の話をさせていただきました。

というわけなので今日は彼の著書「新撰組顛末記」でも読んでみようと思います。

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まだ読んだことない人はこの機に読んでみてはいかがですか?

新撰組顛末記 (新人物文庫)